ALOHA♡みなさんこんにちは。
今回はハワイの日系デイサービスセンターで活動した様子についてお伝えしていきたいと思います。
私は、子供の頃にハワイを訪れて以来、それからハワイが大好きになり、「ハワイに住むのが夢!」とよく友人に話をしていました。ある時、ハワイに住んだ経験のある方と出会い、ハワイの仕事探しについてアドバイスを頂き、そしてついにワンデイTURNINGさんと出逢えたことで、看護師の経験を活かせるデイケアセンターでの活動が始まりました。
活動場所は、ワイキキから車で約15分のオアフ島にあるパロロ地区。山に囲まれ、住宅が建ち並び、観光客が行かないような、本物のハワイの暮らしを感じることができました。
主な活動内容は、昼食の準備、エクササイズ、アクティビティ、工作、音楽、トイレの付き添い・介助です。具体的な内容はある程度任せて頂き、毎日さまざまなものを考え、以下のようにスケジュールに組み込みました。
日本文化もお伝えしたいと思い、ハワイに行く前に、茶道と書を習い、折紙や紙風船、お手玉などの懐かしい日本の遊び道具や、和菓子と3枚の浴衣を日本から持参しました。
日系移民の歴史は約150年前まで遡り、今回関わった多くは、日本人の親を持つハワイ生まれの日系2世や3世の方でした。
当時、過酷な労働を強いられた日系移民のために尽力し、ハワイで亡くなられた日本人看護師(ハワイのナイチンゲールとよばれた)、谷村カツさんという方の本を出国前に読み、ハワイと日本の歴史を知り、実際にハワイにある彼女のお墓にも手を合わせに行きました。
利用者さんの中には、五右衛門風呂や餅つきの杵と臼が家にあったり、お正月にはおせちを食べる方もいらっしゃり、日本とアメリカ両方の文化で生きてこられた方でした。
そして、パールハーバーといえば、1941年真珠湾攻撃による太平洋戦争。これにより、当時アメリカに住む日系人は、アメリカ生まれのアメリカ人でありながらも不利な立場となり、日本人がエイリアンと呼ばれ、家族を残し再入国できなかった友人の話や、親が日本人だったため複雑な気持ちだったことなど、当時の記憶を語り、教えてくださいました。
スタッフは日本人で、利用者さんの中には、若い頃日本語学校に通い、日本語を少し覚えている方もいらっしゃいましたが、ほとんどが英語での会話でした。
正直、私は英語が得意ではなく、最初はドキドキでしたが、表情やボディランゲージ、声のトーン、筆談、Google翻訳、時々簡単な日本語も使いながら、あらゆるコミュニケーション方法を駆使して、アクティビティやエクササイズをなんとか英語で行いました。
利用者さんたちは皆、温かい眼差しで迎え入れてくださり、言語が堪能ではなくても心が伝わることを学び、そして毎日会話しているうちに、いつしかハワイ英語(彼らはピジョンイングリッシュと呼ぶ)で話をしている自分がいました。
拙い英語でも嫌な顔をせず、一生懸命理解しようと辛抱強く聞いてくれる利用者さんたちに、感謝の気持ちでいっぱいでした。
またアメリカは、自分の意見をしっかりと伝えることが必要な文化。日本の恥の文化は一時封印し、自分の意見をしっかりと伝える訓練もしました。
ですがスタッフ同士では、日本人であるからこそ、相手の気持ちを察知し、協力し合い、相手を尊重し合う働き方もでき、日本文化についても考える良いきっかけとなり、母や姉妹のように、共に過ごした仲間との出会いにとても感謝しています。
休日にはUberやバスで島内を周りました。ハワイの美しい景色や海、虹、ウミガメ、妖精が出てきそうな大きなバニヤンツリー、ハイキングでも大自然を堪能し、大地のエネルギーとパワーを感じました。
また古代ハワイアンを感じさせるヘイアウや、ハワイ料理、南国フルーツも堪能し、フラショーを見たり、ウクレレを購入したりもしました。
ハワイでは、神社やお寺、鳥居、高知城をモチーフとした日系の教会、日本名のお店など、至る所で日本文化を垣間見ることができました。日本人コミュニティにもお世話になり、現地で活躍されている方々とお会いしたり、マウイ島のチャリティイベントやクリスマスの合唱に参加したり、日系クリニックの見学や、畑の有機栽培をみせて頂く機会もありました。
現地の方々からは、日本人の素晴らしさを教えてもらいましたし、ここに至るまでの歴史と日本人が残してきたものの大きさを感じ、先人たちの行いに感謝が芽生えた日々でした。
ある日、利用者さんが突然意識を消失。日本ならすぐに救急車を呼ぶ所ですが、私は一瞬迷いを生じたのです。それは、アメリカでは救急車を使うと数十万円の費用が発生すると聞いていたから。救急車は待って!とやはりスタッフが叫びました。ご家族に連絡し、すぐに救急搬送することになり、幸いにも大事には至りませんでしたが、文化の違いを肌で感じた経験でした。ちなみに、救急車に乗らなければ費用はかからないそうで、救急車を呼んだ後でも拒否することができるそうです。
ハワイのシニアの方々は皆おしゃれで、イヤリングやアクセサリーを身につけ、カラフルなお洋服に短パンサンダルというハワイアンスタイルが新鮮でとても魅力的でした。100歳を超えてもピザを食べ、アメリカンジョークを言い、笑顔が美しくて、私はそんなシニアの皆さんが大好きでした。
何日も続けてダブルレインボーを見た時、「神様からのギフトだよ」と教えてくれ、一緒にその美しい空を見て、幸せな気持ちに包まれました。
ほとんどの方は、英語名の他に日本語名を持っておられたため、1人1人のお名前を、筆を使い漢字で書き下ろし、それをプレゼントすると大変喜んでくださいました。
また、茶道を披露し、たてたお抹茶とお懐紙の上にのせた和菓子で日本文化を感じて頂いたり、持参した浴衣を着付けさせて頂いた時の、嬉しそうな姿は忘れられません。
他にも、みんなで1週間かけて60枚の折り紙を使い作った、鮮やかなくす玉が完成した時や、ハロウィンやクリスマスパーティーなど、今でも思い出される皆さんの笑顔。そんな姿を見ている時が、本当に幸せでした。
「日本に帰ったらみんなに教えてあげてね」とハワイアンソングやハワイ語を教えてくれ、一緒に歌ったり、そんな皆さんとの時間は一生の宝物です。
私は最終日、ムームーというハワイアンドレスを着た後、浴衣にチェンジし、日本の衣装でお別れをしました。生花のレイを首にかけてくれて、ハワイアンスタイルでアロハオエを歌ってくれたときには、感動で泣いてしまいました。
ハワイのロコたちは、私をOhana(家族)として温かい気持ちで受け入れてくれ、ご家族からもたくさんのプレゼントを頂きました。
「I love you」「I miss you」「ハワイはあなたにとって第二の故郷」「あなたは家族よ」「またハワイに戻ってきて」と言ってくださり、かけがえのない出会いと、ハワイに新しいFamilyができた喜びで胸がいっぱいになりました。
海外に住むと言う経験は、日本では得られない価値の高いもので、その土地の文化に触れ、新たな価値観や人生観を得られ、その後の人生に大きな影響を与えると思います。
ハワイでの経験を通し、思い出だけでなく、多くの学びと自己成長、そして自己肯定感を高められたと思えています。
人生を諦めず、ご縁を大切に一歩踏み出す勇気を持つことが、夢を叶える近道であることを実感し、私の夢を叶えてくださったワンデイTURNINGさんに心より感謝しています。若かりし頃の自分に伝えたいです、「あなたの夢が叶ったよ」と。この度は本当にありがとうございました。MAHALO